バークリーによれば、物には、観念と精神の二種類がある(第89節)。観念は、知覚されて存在する。では、それを知覚する精神は、どのように知られるのか。私は私自身の精神を、目の前の机や色のように、観念として知っているのだろうか。
バークリーの答えは、否である。この点を、彼は第27節で一度述べ、第一部の終わり近く、第135節以降でもう一度、丁寧に論じ直している。
精神は、能動的な存在である
第27節によれば、精神は、単純で不可分で能動的な一つの存在である。観念を知覚するかぎり、それは知性と呼ばれ、観念を生み出し、あるいは観念について他の仕方で作用するかぎり、意志と呼ばれる。
ここから、魂あるいは精神の観念を形づくることはできない、という結論が出てくる。あらゆる観念は受動的で不活性なものなので、行為するものを、像や似姿という仕方で表象することはできないからである。運動や観念の変化の能動的な原理に似た観念をもつことは、少し注意すれば不可能とわかる、とバークリーは言う。疑う人には、力や能動的な存在の観念を形づくれるかどうか、反省して試してみるよう勧める。
なぜ観念は精神に似ないのか
第135節で、バークリーは、私たちは精神の本性を知らないと考えられている、という見方に答える。精神についての観念をもたないことが、その大きな理由だとされる。しかし、そのような観念がありえないことが明らかなら、人間の知性が精神の観念を知覚しないことは、欠陥ではない。精神は、観念が存在しうる唯一の実体である。観念を支え、知覚する実体が、それ自身観念であり、観念に似ていると言うのは、明らかに不合理である。
第136節の指摘も興味深い。もし精神を知るための特別な感覚が私たちに欠けているのだとして、新しい感覚が授けられたとしても、私たちはそれによって、新しい感覚あるいは観念を受け取るだけだろう。だから、精神の観念を与えない能力を欠陥と考えるのは、私たちの能力が丸い四角を理解できないことを責めるのと同じ程度にしか理にかなっていない。
第137節は、精神を観念のように知ろうとする意見が、多くの不合理な教説と、魂の本性についての懐疑論を生んだ、と見る。探究しても魂の観念が見つからなかった人々が、身体と区別される魂があるのかどうかさえ疑うようになったというのである。
そこで、観念は、思考し作用し自存するという点では精神に似ることができなくても、ほかの点では似ることができるのではないか、と問われるかもしれない。第138節で、バークリーは答える。意志し、思考し、観念を知覚する力を取り除けば、観念が精神に似うる点は何も残らない。精神という語で私たちが意味するのは、思考し、意志し、知覚するものだけだからである。これらの力のどのような程度も観念において表されえないのだから、精神の観念はありえない。
観念ではなく、概念をもつ
では、「魂」「精神」「実体」という語は、まったく無意味なのか。第139節は、この反論に答える。これらの語は、観念でも観念に似たものでもなく、観念を知覚し、それについて意志し推論する、実在する物を意味する。私という語で私が表すものは、魂あるいは精神的実体によって意味されるものと同じである。心の思考をもたない対象はすべて、完全に受動的で、その存在は知覚されることにのみ成り立つ。これに対して、魂あるいは精神は能動的な存在であり、その存在は、知覚されることではなく、観念を知覚し思考することに成り立つ。
第140節と第142節は、そのような精神について、私たちがもつものを「概念」と呼ぶ。厳密には、能動的な存在や作用の観念をもつとは言えない。しかし私たちは、自分の心と、観念に関するその働きについて、ある知識あるいは概念をもっている。それらの語が何を意味するかを知り、理解しているかぎりにおいて、である。さらに、他の精神の心のなかにある観念を、自分の観念によって思い描くのと同じように、他の精神を自分自身の魂によって知る、とバークリーは言う。なお、バークリーは、世間がそう望むなら、観念と概念という語を互換的に用いてもよいと断っている。ただし、非常に異なる物を異なる名で区別するほうが、明晰で適切であり、結局は言葉だけの問題だとも述べる。
つまり、私が自分を知る仕方と、机を知る仕方とは違う。机は、知覚される観念であり、その存在は知覚されることにある。私は、観念を知覚し、観念について意志するものであり、その存在は、知覚することにある。第142節の言葉を借りれば、能力をどれほど増したり広げたりしても、三角形を知るように精神を知りうると期待することは、音を見ることを望むのと同じくらい不合理である。
第一部の冒頭に戻る
こうして、第2節の二つの主張が、もう一度読み返せる。観念の存在は知覚されることにあり、観念を知覚するものは、観念とは完全に別個の精神である。バークリーは第一部のはじめでそう述べ、物とは、知覚される観念と、それを知覚する精神にほかならないという構図を示した。そして第一部を通して、この構図の上で、物質の否定、自然法則、精神の本性という論点を、一つずつ築いていった。
この全体を、バークリー自身の言葉で順にたどりたい方のために、翻訳HTMLを用意している。序論の試し読み版は、無料で読むことができる。