目の前に机がある。私たちは、それが「ある」ことを少しも疑わない。けれども、「ある」とは、いったいどういうことなのだろうか。机がある、と言うとき、私たちはそこに何を認めているのだろうか。
バークリーは『人知原理論』の第一部を、この素朴な問いから始める。そして数ページのうちに、一つの大胆な結論に至る。感覚でとらえられる物が存在するとは、それが知覚されることにほかならない、というのである。
リンゴは、感覚の集まりである
バークリーはまず、人間の知識の対象を見渡す。視覚によって私たちは光と色をもち、触覚によって硬さと柔らかさ、熱さと冷たさ、運動と抵抗を知覚する。嗅覚は匂いを、味覚は味を、聴覚は音を与える。バークリーはこうした心の中身を、まとめて「観念」と呼ぶ。
次の一節が、この冒頭の要である。これらのいくつかが互いに伴うことが観察されると、それらは一つの名で表され、一つの物とみなされるようになる、とバークリーは言う。たとえば、ある色、味、匂い、形、固さが一緒にあることが観察されると、それは一つの別個の物とされ、リンゴという名で表される。観念の別の集まりは、石、木、本、その他同様の感覚的な物を構成する。
ここで注意したいのは、リンゴが、色や味や匂いの「裏側」にひそむ何かとしては語られていないことである。私たちが知っているのは、色、味、匂い、形、固さであり、リンゴとは、それらが一緒にあるのを見て、私たちがつけた名前である。物とは、感覚される性質の集まりである。バークリーはこう読む。
観念を知覚するもの
しかし、観念だけで世界が尽きるわけではない。観念の果てしない多様のほかに、それらを知り、知覚し、それについて意志し、想像し、想起するといった作用を営む何かがある、とバークリーは続ける。この知覚する能動的な存在を、彼は「心、精神、魂、あるいは私自身」と呼ぶ。
この精神は、観念のどれか一つではない。観念とは完全に別個の物であり、そのうちに観念が存在する、あるいは同じことだが、それによって観念が知覚される物である。こうして世界は、二つに分けられる。知覚される観念と、それを知覚する精神である。
「机は存在する」と言うとき
では、感覚的な物が「存在する」とは、何を意味するのか。バークリーは、自分の机を例にとる。「私が書いている机は存在する、と私は言う。すなわち、私はそれを見、それに触れる。」
書斎の外にいるときはどうか。それでもバークリーは、机は存在したと言うだろう。その意味は、もし書斎にいたなら自分はそれを知覚しえただろう、あるいは、何かほかの精神が現にそれを知覚している、ということである。匂いがあった、というのは、それが嗅がれたということ。音があった、というのは、それが聞かれたということ。色や形があった、というのは、それが視覚や触覚によって知覚されたということである。
思考をもたない物の絶対的な存在を、それが知覚されることとは何の関係もないものとして語ることは、バークリーには、まったく理解できない。そこから出てくるのが、この本の最も有名な原理である。それらの esse(存在すること)は percipi(知覚されること)である。
なぜ「明白な矛盾」なのか
家、山、川、すべての感覚的な対象が、知性によって知覚されることとは別個の、自然的あるいは実在的な存在をもっているという意見は、人々のあいだに奇妙なほど広く行き渡っている、とバークリーも認める。しかし、それを疑ってみる気になった人は、そこに明白な矛盾があることに気づくだろう、と彼は言う。感覚によって私たちが知覚するのは、自分自身の観念あるいは感覚以外の何なのか。そして、それらが知覚されないまま存在するというのは、明らかに不整合ではないか。
バークリーは、この広い信念の根底を、抽象観念の学説に見る。感覚的な対象の存在を、それが知覚されることから区別して、知覚されないまま存在すると思い描く。これほど精妙な抽象があるだろうか。彼自身は、思考のうえでさえ、そうすることができない。手足のない胴体を想像したり、バラそのものを考えずにバラの香りを思い描いたりすることはできる。しかし、それは実際に別々に知覚されうるものを別々に思い描いているにすぎない。想像する力は、存在や知覚の可能性を越えないのである。
だから、バークリーは読者に求める。この真理を確信するには、自分自身の思考のなかで、感覚的な物の存在をそれが知覚されることから切り離そうと、反省し試みさえすればよい。そして第7節は、まず一つの帰結を述べる。精神、すなわち知覚するもの以外には、いかなる実体もない、と。さらに十分に証明するために、彼はこう論じる。感覚的な性質とは、感覚によって知覚される観念である。観念をもつことは知覚することと同じなので、観念が知覚しない物のうちに存在するのは明白な矛盾である。それゆえ、それらの観念の、思考をもたない実体あるいは基体はありえない。
ところで、バークリーが「抽象」と呼ぶものは何で、なぜそれが問題になるのか。この疑問に、彼自身は本論の前の序論で答えている。次の記事では、本の順序を少しさかのぼって、その序論を読んでみよう。