神と精神の存在を示したデカルトは、第五部で一転、自然学の話題に移ります。そこで語られるのが、当時としてはきわめて大胆な主張、動物機械論です。

心臓は、精巧な機械にすぎない

デカルトは、心臓と血液の運動を、詳細に機械的な仕組みとして説明します。心臓の中には、光を伴わない一種の火があり、その熱が心臓の空洞に入ってきた血液を、非常に熱い容器に落とされた液体のように、たちまち膨張・拡散させる。この膨張の力が血液を動脈へと押し出し、心臓の中にある十一枚の小さな膜が、逆流を防ぎながら血液の流れを一方向に導く。これらはすべて、生命や魂を持ち出さずとも説明できる、純粋に物理的な現象だというのです。

興味深いのは、デカルトがこの心臓の説明を、当時最新の生理学の知見と結びつけていた点です。血液が心臓を通過するたびに希薄化され、いわば蒸留されることで、動脈の血液のほうが静脈の血液より精妙で活発になる、という説明は、ウィリアム・ハーヴィーが発見した血液循環の仕組みを踏まえたものでした。デカルトは、生命現象の説明から、神秘的な力や目的論的な性質を一切排除し、純粋に力学の法則だけで語り尽くそうとしたのです。

この上でデカルトは、動物の身体全体を、神の手によって作られたがゆえに、人間が発明しうるいかなる機械よりも比較にならないほどよく組み立てられた、「一つの機械」とみなします。植物的・感覚的な魂といった特別な原理を想定しなくても、心臓の熱と、身体の物質的な構造だけで、消化・呼吸・血液の循環といった、動物のあらゆる機能は説明できる、というのがデカルトの主張でした。実際、切り落とされて間もない首が、生命を失っていながらまだ地面を噛むように動く様子さえ、この機械的な説明を裏づけるものとして持ち出されています。

猿そっくりの機械があったら

ここでデカルトは、思考実験を持ち出します。猿や他の理性を持たない動物と、器官も姿もそっくりな機械があったとしたら、それが本物の動物ではないと見分ける手段は、我々にはないだろう、と。動物は、突き詰めれば精巧な自動機械と、区別がつかないというのです。

しかし、人間に似た機械であれば話は別だとデカルトは続けます。我々の身体に似た姿を持ち、道徳的に可能なかぎり我々の行為を模倣する機械があったとしても、それが本物の人間ではないと見分けるための、非常に確実な二つの手段が我々にはつねにあるだろう、というのです。

言葉を「組み立てる」ことができるか

第一の手段は言語です。機械は、器官に何らかの変化を引き起こす身体的な行動に応じて、特定の言葉を発するようには作れます。しかし、そこに居合わせるすべての人が語ることの意味に応じて、もっとも愚鈍な人間でさえできるように、言葉をさまざまに配列して答えるということは、機械にはできない、とデカルトは言います。カササギやオウムは人間と同じように言葉を発することができますが、それでもなお、自分が言っていることを考えているということを示すようには話せません。

第二の手段は、機械が個々の行為ごとにそれぞれ特定の器官の配置を必要とするのに対し、理性はあらゆる種類の場面で役立ちうる普遍的な道具である、という点です。機械のうちに、人生のあらゆる場面で我々の理性が我々を行動させるのと同じように行動させるだけの、さまざまに異なる器官を備えることは、道徳的に不可能だとデカルトは考えました。歯車とぜんまいだけで構成されている時計が、我々があらゆる思慮を尽くすよりも正確に時を数えられるのは、それが理性を持つからではなく、単にその器官の配置に従って動いているだけだからです。

これと同じ二つの手段によって、デカルトは人間と獣の違いも説明します。生まれつき耳が聞こえず口がきけない人間でさえ、通例、自分自身で何らかの記号を考案し、それによって自分の考えを人に理解させることができるのに対し、どれほど完全に生まれた動物であっても、同じことをする動物は一匹もいない。これは器官が欠けているためではなく、獣が人間よりも少ない理性しか持たないということだけでなく、獣がまったく理性を持たないということを示している——これが、デカルトの結論でした。次の記事では、この自然学の議論の先で、デカルトがなぜ、いちばん重要な発見をあえて公表しないでおいたのかを見ていきます。