「我思う、ゆえに我あり」にたどり着いたデカルトは、続けて自分自身を振り返ります。自分は疑っている——ということは、自分の存在は完全なものではない。疑うことより、認識することのほうが、より大きな完全性だと明晰に見て取れるからです。
不完全な私に、なぜ「完全」という観念があるのか
ここでデカルトは、一つの問いを立てます。自分よりも完全な何ものかを考えるという発想を、自分は一体どこから学んだのだろうか、と。
天や地、光や熱、その他何千もの事物のような、自分の外にある事物についての考えなら、それがどこから来たのかにさほど困惑する必要はありません。それらのうちに自分より優れているものは何も見出せないので、もしそれらが真であれば自分の本性の産物であり、真でなければ、自分に欠陥があるから生じたのだ、と信じることができるからです。
しかし、自分自身よりも完全な存在者という観念は、事情が違います。それを無から得るということは明らかに不可能であり、より完全なものが、より不完全なものの帰結であり派生物であるということも、無から何かが生じるのと同じくらい相容れません。したがって、この観念は、真に自分より完全な、しかも自分が何らかの観念を持ちうるすべての完全性を自らのうちに持つ、ある本性によって、自分の中に置かれたに違いない。一言で言えば、それが神だった——デカルトはそう結論します。さらに彼は、自分が何らかの完全性を欠いていると認識している以上、自分は唯一の存在者ではなく、自分が依存し、自分の持つすべてを得たところの、より完全な何か別のものが必然的に存在しなければならない、とも付け加えています。
この推論を、デカルト自身がどのような言葉で組み立てているのか気になった方へ。
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もう一つの証明——三角形の内角の和のように
デカルトはさらに、別の角度からも神の存在を示そうとします。三角形を想定すれば、その三つの角の和が二直角に等しいことを、我々はよく理解します。しかし、だからといって世界のうちに何らかの三角形が実際に存在することまでは、保証されません。ところが、自分が持っていた「完全な存在者」の観念を改めて検討してみると、そこには、三角形の観念にその内角の和の性質が含まれているのと同じように、いやそれ以上に明証的に、存在そのものが含まれていることに気づいた、とデカルトは言います。この完全な存在者である神が存在するということは、少なくとも幾何学のいかなる論証にも劣らず確実だ、というのです。この議論は、後に「存在論的証明」と呼ばれることになる、もう一つの神の存在証明の原型でもあります。
この議論の型そのものは、後の『省察』でさらに整理され、徹底されることになります。しかし「不完全な自分に、なぜ完全という観念があるのか」という問いの立て方自体は、すでにこの第四部の時点で、ほぼ完成した形で現れているのです。
神は、なぜ必要だったのか
デカルトにとって神は、単なる信仰の対象にとどまりません。「明晰かつ判明に考える事柄はすべて真である」という、あの規則そのものが、神が存在し、神が完全な存在者であり、我々のうちにあるものがすべて神から来るということによってのみ保証される、と彼は考えます。もし我々が虚偽を含む観念を持つとすれば、それは何か混乱し不明瞭なものを持つ観念にほかならず、それは我々が完全ではないからにほかならない、というのです。
もし神の存在を前提しなければ、目覚めているときの考えと、夢の中の考えとを、確実に区別する手立てがない。どれほど優れた精神の持ち主でも、神の存在をあらかじめ前提しないかぎり、この疑いを取り除くのに十分な理由を挙げることはできないだろう、とデカルトは述べています。だからこそ、この因果論的な証明は、コギトに続く、避けて通れない一歩だったのです。次の記事では、この神と精神の議論から一転、動物や身体をめぐる自然学の議論へと移っていきます。