四つの規則を手に入れたデカルトは、いよいよ自分の意見を一つひとつ疑い、取り除いていく作業に取りかかろうとします。しかし、そこで一つの実際的な問題にぶつかります。判断を保留している間も、人は生き続け、日々何かを選び、行動しなければならない、という問題です。
家を建て替える間の、仮住まい
デカルトはここでも建築の比喩を使います。住み続けている家を建て替えるときには、それを取り壊すだけでなく、資材や職人を調達し、あるいは自ら建築術を学び、設計図を注意深く描いておく必要がある。それだけでなく、その工事の間、快適に住める別の場所も用意しておく必要がある。それと同じように、理性がまだ判断を下せずにいる間も、行動においては優柔不断のままでいることがないよう、そしてその間もできるかぎり幸福に生き続けられるよう、三つか四つの格率からなる、暫定的な道徳をあらかじめ作り上げておいた——デカルトはそう語ります。
三つの格率
第一は、自国の法律と慣習に従い、幼い頃から神の恩寵によって教えられてきた宗教を確固として守り続け、それ以外のあらゆる事柄については、もっとも良識ある人々に実際に受け入れられている、もっとも穏健で行き過ぎからもっとも遠い意見に従って、自分を律することでした。自分自身の意見はすべて検討にかけるつもりでいたために、それらをまったく当てにできなかったからこそ、もっとも良識ある人々の実践に従う以外にうまくやる方法はない、と考えたのです。等しく受け入れられている複数の意見の中では、もっとも穏健なものを選びました。それがいつでも実践にとってもっとも都合がよいだけでなく、もし自分が誤っていた場合でも、両極端のどちらかを選んで誤るより、真の道から逸れる度合いが少なくてすむだろうと考えたからです。
第二は、いったん行動すると決めたら、たとえその判断がどれほど疑わしくとも、できるかぎり確固として、迷いなく貫くことでした。森の中で迷った旅人が、あちこち歩き回ったり、まして一つの場所にとどまったりするより、できるかぎりまっすぐに、一つの方向へ歩き続けたほうがよい、とデカルトは言います。その方角を選んだ最初の理由はもはや大した根拠がなかったとしても、少なくともその方角を貫けば、森の真ん中にいるよりは、どこかにたどり着けるはずだからです。
第三は、運命に打ち勝とうとするより、自分自身に打ち勝つよう努め、世界の秩序を変えようとするより、むしろ自分の欲望を変えるよう努めることでした。我々の力の及ぶのは自分の考えだけであり、それ以外のものについては、最善を尽くしてもなお得られないものはすべて、自分にとって絶対に不可能なことだと考えるように習慣づければ、手に入らないものを欲しがって思い煩うことはなくなる、というのです。
この三つの格率を、デカルト自身がどのような言葉で語っているのか気になった方へ。
▼ 古典書房のデカルト『方法序説』翻訳HTMLでお読みいただけます。
九年間の遍歴
この暫定道徳を定めたうえで、デカルトはさらに、自分に可能な仕事の中でもっとも善いものとして、真理の探究において自分の理性を涵養することを選びます。そしてそれに続く九年間、各地を転々としながら、そこで演じられるあらゆる喜劇において、俳優としてよりも観客としてそこにいようと努め、事柄を疑わしくし、思い違いをさせる原因となりうるものを、特に反省の対象にしていきました。
ただし彼は、ただ疑うためだけに疑い、つねに優柔不断であることを気取る懐疑論者たちを見習ったわけではない、と念を押しています。企ての全体が目指していたのは、確信を得ること、そして動く土や砂を取り除いて、その下にある岩や粘土を見出すことだけでした。命題の誤りや不確実性を、弱い推測によってではなく、明晰で確実な推論によって発見しようと努めたので、その命題自体が確実なものを何も含んでいないという結論であっても、つねに何かしら十分確実な結論を引き出せないほど疑わしい命題には、一つも出会わなかった、とデカルトは振り返っています。古い家を取り壊すとき、その解体資材を新しい家のために取っておくように、根拠が薄弱だと判断した意見を破壊しながらも、そこから得た観察や経験は、後により確実な意見を打ち立てるのに役立ったのです。
疑いは、それ自体が目的ではなく、確実なものにたどり着くための手段だったこと——この点は、次の記事で見る、あの「私は考える、ゆえに私はある」という発見にも、そのまま引き継がれていきます。