天と暦を定め終えたマルドゥクは、神々の不満を前に、ある決断を下します。人間を創ろう、というのです。ただしその方法は、私たちが思い浮かべる「創造」とは、かなり様子が違います。

繰り返される「巧みな計画」

第六書板はこう始まります。マルドゥクは神々の言葉を聞くと、心を動かされ、ある「巧みな計画」を考え出し、それをエアに打ち明けます。

興味深いのは、この「巧みな計画」という言葉づかいです。実はこの詩には、もう一箇所だけ、同じ言葉が使われている場面があります。ティアマトを討ったあと、その亡骸を見つめながら、天をどう造るか思案する場面です(第四書板136行)。天を造ったときと、人間を造ろうとするいま——同じ言葉が二度使われていることに、人間の創造がこの物語のなかでどれほど重い出来事と見なされていたかが、うかがえます。

神々の不満と、人間創造の目的

マルドゥクは、大地に住む人間を創り、神々への奉仕を確立し、神殿を建てさせようとします。前の記事で見たとおり、これは、神々が「自分たちをたたえる神殿がなく、礼拝する者もいない」と不満を漏らしたことへの応えだったと考えられます。ただしマルドゥクは同時に、神々の振る舞いを改めさせ、罰することも考えていたようです。この物騒な計画の後半は、実行されずに終わったのではないか、と底本の注は推測しています。

自分の血と骨から

マルドゥクは、自分の血を取り、骨を形づくって、人間を造ろうと告げます。ここで底本の注は、興味深い指摘をしています。「骨」を意味するここでのアッシリア語「イッシムトゥ」は、旧約聖書『創世記』2章23節——アダムの肋骨から女が創られる場面で使われるヘブライ語「エツェム」(骨)に、疑いなく相当する、というのです。天地創造の場面に続いて、人間創造の場面でも、この詩と旧約聖書のあいだに、思いがけない符合が見つかります。

ベロッソスが伝える、もうひとつの記述

紀元前3世紀、バビロニアの神官ベロッソスは、ギリシア語でバビロニアの歴史を著しました。その記述——のちの著述家を通じて今日まで伝わっているもの——によれば、大地が荒れ果てているのを見たベール(マルドゥクの別名)は、一柱の神に、自分の首を切り落とすよう命じ、流れ出た血を土と混ぜて、人間と動物を創らせた、といいます。

自分自身の首を切らせる——あまりに衝撃的な記述のため、これまで多くの学者が、「本当はティアマトの血だったのではないか」「首を切られたのはベールではなく別の神だったのではないか」と、本文を書き換えて読もうとしてきました。しかし底本は、こう指摘します。第六書板5行で、マルドゥク自身が「私は私の血を取り」と述べている以上、ベロッソスの記述は修正の必要がない、正確なものと考えてよい、と。

では、実際に首を切る役目を担ったのはだれなのか。底本は、マルドゥクが計画をエアに打ち明けている、この記事の冒頭で見た場面に注目します。命じたのはマルドゥク、実際に手を下したのはエアだったのだろう、というのがその結論です。それでも、人間の創造者と見なされているのはあくまでマルドゥクの方だということが、のちの書板の記述から分かる、とも付け加えられています。

さらにベロッソスは、ベールの血が、人間だけでなく動物の創造にも用いられたと伝えています。もしこれが第六書板にも書かれていたのだとすれば、動物の創造は人間創造のあとに続いていたことになります。それでも、書板の冒頭の一文――ティアマトの亡骸を前にしたときと同じ「巧みな計画」という言葉――は、人間の創造こそが、マルドゥクの創造の仕事の頂点にあったことを物語っています。

こうして誕生した人間をよそに、神々は喜びに沸き立ちます。彼らはウプシュッキナクに集まり、彼らの復讐者である「勇ましい息子」の名を、あらためて呼び上げようとします。次の記事では、この場面から始まる第七書板——マルドゥクに与えられる五十の名を見ていきます。