目を閉じて、自分の部屋を思い浮かべてみる。部屋のようすは心に浮かぶが、実際にその場で見ているときと同じではない。何が違うのか。そもそも、頭のなかに浮かぶ、色や味のような単純な観念は、どこから来るのか。

ヒュームは『人間本性論』第1巻の最初の節で、この素朴な問いから、自分の学問の出発点になる原理を取り出す。その道筋を順に追ってみよう。

知覚は、印象と観念に分かれる

ヒュームはまず、心のあらゆる知覚を二種類に分ける。印象と観念である。両者を分けるのは、心に入ってくるときの力と生気の度合いにある。いちばん強く激しく現れるのが印象で、感覚、情念、情動のすべてが、初めて心に現れたときの姿でこれに入る。観念は、考えたり推論したりするときの、それらの弱い像である。

この区別に、ヒュームは多くの言葉を使わない。「感じることと考えることの違い」は、だれでもすぐ分かるというのである。眠りや熱病や狂気のなかで観念が印象に近づいたり、弱い印象が観念と見分けにくくなったりすることは認める。それでも、たいていの場合は違いが明らかなので、別々の名で呼んでよいと考える。

単純なものと複合的なもの

ヒュームはもう一つ、単純と複合という区分を用意する。単純な知覚は、これ以上区別も分離もできない。複合的な知覚は、部分に分けられる。林檎には色、味、匂いがそろっているが、三つは同じではなく、互いに区別できる。この区分は、印象にも観念にも当てはまる。

こうして整理すると、ヒュームの目に留まることがある。印象と観念は、力と生気の度合い以外、あらゆる点で非常に似ている。部屋を思い浮かべるときの観念は、先に感じた印象を正確に表しており、片方にだけあるものは見当たらない。観念は印象の映しのようである。

だが、彼はすぐに、外見に流されすぎたと認める。複合的なものには、この対応が崩れる場合がある。黄金の舗道とルビーの城壁をもつ新しいエルサレムは、見たことがなくても想像できる。逆に、パリを見たことがあっても、その街の全体を実際の比率のまま完全に写した観念を持てるとは、断言できない。複合的なものについて、観念と印象が正確な写しだという規則は、いつでも成り立つわけではない。

単純な観念は、単純な印象に由来する

では、単純な知覚ではどうか。ヒュームは、できるかぎり調べたうえで、ここでは例外がないと、あえて断言する。単純な観念にはそれと似た単純な印象があり、単純な印象には対応する観念がある。暗闇で思い浮かべる赤と、日光のなかで目に入る赤は、「度合いにおいてのみ異なり、本性においては異ならない」。

全部を数え上げて確かめることはできない。そこで彼は、反対する人に挑戦する。観念を伴わない単純な印象、または印象のない単純な観念を、一つ見せてほしい。見せられないなら、その沈黙と自分の観察によって、結論を立てることができる。

次に問われるのは、どちらが原因でどちらが結果か、である。ヒュームの命題は、単純な観念は最初に現れるとき、対応する単純な印象から導かれる、というものだ。論拠の一つ目は、両者がいつも一緒に現れる、つまり恒常的に連接していることである。これほど多くの事例で続くなら、偶然ではなく、一方が他方に依存している。その向きは現れる順序で分かり、単純な印象がつねに先で、観念が先になることはない。子供に緋色や甘さの観念を与えたいなら、その対象を示す。観念を呼び起こして印象を生み出そうとする人はいない。

二つ目は、生まれつき目が見えない人や耳が聞こえない人には、印象だけでなく、対応する観念もないことである。器官が一度も働いていない場合も同じで、パイナップルを食べたことのない人は、その味の正しい観念を持てない。

青の色合いという例外

ところがヒュームは、自分の命題に反する現象を、自分で一つ挙げる。まず、同じ色の異なる濃淡も、それぞれ別個の観念を生むと確認する。そうでないなら、濃淡を少しずつ段階づけていくと、途中のものを同じとみなすことになり、最も遠い色まで同じだと認めざるをえなくなって、不条理になるからだ。

そこで、三十年間ものを見てきて、あらゆる色を知っているが、青のある一つの濃淡にだけ出会ったことのない人を想定する。その濃淡を抜いて、青を濃いものから薄いものへ並べると、彼はそこに空白があり、隣り合う色の隔たりがそこだけ大きいことに気づくはずである。この人は、一度も見たことのないその青を、想像力で補えるだろうか。ヒュームは、ほとんどだれもが補えると答えるだろうと言い、これが、単純な観念はいつも対応する印象から来るとは限らないことの立証になりうる、と言う。

それでも彼は、この事例をあまりに特殊だとして、一般的な格率を改めるには及ばないと退ける。もう一つ付け加えるのは、観念から二次的な観念をつくる場合である。厳密にいえば、これは規則の例外というよりも、規則の説明にあたる、とヒュームは言う。もとの観念は印象に由来すると想定されているのだから、単純な観念はすべて、直接か間接かの違いはあっても、対応する印象から生じる。

これが、人間本性の学でヒュームが立てる最初の原理である。彼は、「外見が単純だからといって軽んじてはならない」と言う。だが、観念が先立つ印象に由来するなら、まだ見ていないものについて、私たちはどう考えているのか。次の記事では、原因と結果を論じる第3部に進む。