部屋を出て戻ってきたとき、机の上の眼鏡はたいていそこにある。誰も見ていなかったあいだ、眼鏡が消えて、また現れたのだとは、ふつう誰も考えない。見ていない物は存在し続けている。この信念は、あまりに当たり前なので、理由を問われることすらない。ヒュームは『人間本性論』第1巻第4部第2節で、この当たり前の信念がどこから来るのかを問う。
ただし、彼が問うのは物体があるかどうかではない。彼によれば、「物体は存在するのか否かと問うのは無駄である」。それは、われわれがどんな推論をするときにも、前提としなければならないことだからである。問うべきは、物体の存在を信じる、その原因は何か、である。ヒュームは、対象に継続的な存在を帰する問いと、心から別個の存在を想定する問いを区別して論じるが、本稿は前者を中心に述べる。
感官は、見えなくなった後のことを教えない
まず思いつくのは、感官がそう教えてくれるのだ、という答えである。ヒュームはこれを最初に調べる。対象が感官に現れなくなった後も、その存在を感官が告げるというのは、語の矛盾である。感官があらゆる作用をやめた後でも作用し続ける、と言うに等しいからである。のちの要約でも、理由は同じ形でまとめられている。「感官は、実際に作用している範囲を超えて作用することができない」。
理性も、この信念を与えない
では理性か。ヒュームは、色や音を例にとる。われわれはそれらに、理性に相談することなく、別個で継続的な存在を認めている。哲学者がどれほど説得力のある論拠を考えついても、それを知っているのはごく少数であり、子どもや農民をはじめ人類の大部分は、そうした論拠に導かれているわけではない。
しかも、哲学の教えるところは、むしろ逆である。哲学によれば、心に現れるのは知覚だけであり、それは中断し、心に依存する。これに対して俗人は、知覚と対象を同じものと見なし、見たり感じたりしているものそのものを、別個で継続的に存在するものとする。この見解は理に合わない。それゆえ、知性とは別の能力から生じているはずだ、とヒュームは結論し、その能力として想像力を挙げる。
恒常性と整合性が手がかりになる
それでは、想像力は何を材料にしているのか。ヒュームは、継続的な存在を帰する対象とそうでない印象とを比べる。違いは、印象が不随意かどうかでも、激しいかどうかでもない。苦痛や快は激しく、思いどおりにならないが、知覚を超えた存在をもつとは考えられない。違いは、恒常性にある。山や家や木、寝台や机や書物は、目を閉じても頭を回しても、戻ってきたときには変わらない順序で現れる。
ただし、この恒常性は完全ではない。物体は位置や性質を変える。一時間留守にして戻れば、暖炉の火は同じ状態にない。それでも変化には整合性がある。同じ時間が経てば同様の変化が起きることを、われわれは自分がいてもいなくても見慣れている。
ヒュームはこの整合性を、部屋にいる場面で示す。火のほうを向いて座っていると、突然、扉の回るような音が急に聞こえ、少しして運搬人が歩いてくる。そんな音が扉の動き以外から出る例を、私は知らない。そうすると、部屋の向こうにあったはずの扉が今もあると考えない限り、この出来事は過去の経験と食い違う。運搬人についても同じである。人の身体は重さのために宙を上れないので、階段が私の不在中も存在しているのでなければ、運搬人は宙を上ってきたことになる。この想定は、はじめは恣意的な仮説にすぎなかった。しかし、食い違いを調停できる唯一の想定だという理由で、力と明証性を得る。こうして、世界は持続するものだと見なすように、われわれは導かれる。
想像力が、途切れた知覚をつなぐ
ところが、ヒュームはここで、これが因果についての通常の推論と同じではないと注意する。習慣は、実際に現れた知覚の規則性を超えることができないはずだからである。知覚されたことのない対象に、いっそう大きな規則性を認めるには、何かほかの原理の協働が要る。
その一つが、想像力の傾きである。想像力は、一度ある思考の流れに入ると、対象が尽きた後も、櫂で漕ぎ出されたガレー船が新たに押されなくても進み続けるように、先へ進もうとする。対象に継続的な存在を想定すれば、整合性はずっと大きく一様になる。想像力はそこまで進むのである。ただし、この原理だけでは、これほど巨大な建造物を支えるには弱すぎる。そこでヒュームは恒常性を重ねる。
恒常性のほうは、次のように働く。太陽や海の知覚は、少し間を置いてから、同じ部分、同じ順序で戻ってくる。そのとき、われわれはそれらを別々の知覚とは見なさず、似ているために同じ一つの知覚だと考える。類似した知覚の観念をたどる想像力の移りゆきがなめらかなので、われわれはそれらに完全な同一性を帰してしまう。しかし、現れが途切れていることは、同一性に反する。ここにわれわれは矛盾を感じ、いくらか途方に暮れる。そこで中断を覆い隠すために、途切れた知覚の間には、感じ取れない実在的な存在があって両者を結んでいる、と想定する。ヒュームはこの想定を、「継続的存在という虚構」と呼ぶ。類似する知覚に同一性を帰するこの意見を抱くのは、人類のなかの、深く考えない非哲学的な人々である。ヒュームは、それがわれわれ全員のいつかの姿でもあると添えている。
見ていない物が存在し続けるという信念は、感官からも理性からも来ない。恒常的で整合的な現れを手がかりに、想像力が中断を埋めた結果なのである。次の記事では、同じ問いを私自身について立てるとどうなるかを、軽く見ていく。