「これは赤い」「AはBの原因である」――私たちは無数の判断をしながら生きている。カントは、判断にはいくつかの基本的な「型」があることに注目した。量・質・関係・様相という四つの観点から、判断にはあわせて十二の論理的な形式がある、と彼は整理する。
判断には、いくつかの型がある
たとえば「すべての物体は重さをもつ」という判断は全称判断(量)、「バラは赤い」という判断は肯定判断(質)、「AならばBである」という判断は仮言判断(関係)といった具合に、あらゆる判断は、この十二の型のいずれかに分類できる、とカントは考えた。これは彼が独自に思いついたものではなく、当時の伝統的な論理学の判断表を、体系的に整理し直したものである。
論理的形式が、認識の根本概念になる
ここでカントが踏み出す一歩が独特である。彼は、この判断の論理的な形式が、そのまま物を認識するための根本概念――カテゴリー――になる、と考えた。「AはBの原因である」という判断の形式が、「原因性」というカテゴリーとして、経験の対象そのものに適用される。量・質・関係・様相という四つの観点それぞれに三つずつ、合計十二のカテゴリーが対応する。実体と属性、原因と結果、全体と部分――これらは、私たちが物を考えるときに、常にすでに使っている、いわば認識の骨組みである。
カテゴリーは、経験という営みの文法である
つまりカテゴリーとは、単なる言葉の分類ではない。それは、バラバラな感覚の素材を「一つの対象についての経験」へとまとめ上げるための、悟性の側の規則なのだ。実体、原因性、相互作用――これらは物の中にあらかじめ転がっている性質ではなく、私たちの悟性が経験を成り立たせるために持ち込む枠組みである。
この枠組みがなければ、私たちは無数の感覚の断片を持つだけで、それを「一つの物についての経験」として結びつけることができない。カテゴリーは、経験を経験として成り立たせる、いわば文法のようなものなのである。
表とカテゴリーの対応
量のカテゴリーには単一性・数多性・全体性が、質には実在性・否定性・制限性が、関係には実体性と属性・原因性と依存性・相互性が、様相には可能性・現実性・必然性が対応する。カントはこの十二個を、思いつきで並べたのではなく、判断表の四つの観点それぞれの中に見られる三分法から、体系的に導き出せると考えた。この体系性へのこだわりは、後の哲学者たちから「表にこだわりすぎている」と批判されることもあるが、カント自身はこれを、認識のあらゆる可能性を漏れなく尽くしたことの証だと考えていた。
カテゴリーは経験の外では空回りする
もう一つ重要なのは、カテゴリーがどこまで使えるかという範囲の問題である。カントは、カテゴリーは感性による直観と結びついてはじめて意味のある認識になるのであって、直観からまったく切り離してカテゴリーだけを使おうとすると、内容のない空虚な思考になってしまうと警告する。「実体」や「原因性」を、経験を超えた魂や神にまで適用しようとする誤りは、この警告を無視するところから生まれる。次回以降で見る「誤謬推理」や「アンチノミー」は、まさにこの誤用の実例である。
ここまでのカテゴリー論を、カント自身がどのような言葉で展開しているのか気になった方へ。
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