前回、空間と時間は心の形式であり、物そのものの姿ではないという話をした。では、バラバラに与えられた感覚の断片は、どうやって「一つのまとまった経験」になるのだろうか。
バラバラな感覚は、どうやって一つになるのか
目の前のコーヒーカップを見るとき、私たちは実際には、取っ手の丸み、白い色、立ちのぼる湯気といった、無数のバラバラな感覚を同時に受け取っている。それにもかかわらず、私たちはそれを「一つのカップ」として、迷いなく認識する。この「一つにまとめる」働きは、いったいどこから来るのか。
統覚という接着剤
カントはここで、「私は考える」という一つの働きに注目する。どんな経験であれ、それが「私の」経験として成り立つためには、その経験全体に「私は考える」という自己意識が、いわば同伴していなければならない。これをカントは統覚――統一的な自己意識――と呼ぶ。
大事なのは、この「私は考える」が、単に「私は今ここにいる」という個々の意識ではなく、バラバラな表象を一つにまとめ上げる働きそのものだ、という点である。統覚は、あらゆる経験にあらかじめ伴っている、いわば経験の背骨のようなものであり、これがなければ、どれほど多くの感覚を受け取っても、それらは互いに無関係な断片のままにとどまってしまう。カントはこの原則を、あらゆる悟性使用の最高の原理とまで呼んでいる。
カテゴリーへの橋渡し
この統覚の統一があってはじめて、悟性の根本概念――カテゴリー――が、経験に対してどのような役割を果たすのかが見えてくる。カントは、統覚の統一を成し遂げる具体的な規則こそが、実体や因果性といったカテゴリーなのだと論じていく。この道筋――統覚の根源的な統一から、カテゴリーの正当な使用へと至る議論――は超越論的演繹と呼ばれ、『純粋理性批判』の中でも特に難解だが、決定的に重要な章として知られている。カント自身、初版と第二版とで、この章の論じ方を大きく書き改めているほどである。
三重の総合という下ごしらえ
カントは実際には、統覚が働く手前に、さらに三段階の「総合」があると分析している。感覚を一つひとつ受け取る「覚知の総合」、それを記憶の中でつなぎとめる「再生の総合」、そしてそれを一つの概念のもとに認識する「再認の総合」である。文章を一文読むときのことを考えてみるとよい。最後の文字を読み終えたとき、私たちは最初の文字をまだ「覚えて」おり、しかもそれを今読んでいる文字と結びつけて、一つの意味のある文として認識している。この、時間の中でバラバラに与えられる要素を、忘れずに保持し、結びつけ、意味あるものとして認識する働きの全体を、統覚が最終的に統一している。
経験的な自己意識との違い
ここで注意すべきは、統覚が語っているのは、心理学的に「自分の性格を振り返る」といった経験的な自己意識とは別のものだ、という点である。経験的な自己意識は、内官を通じて、移り変わる心の状態を眺める働きであり、それ自体はやはり時間のうちで生じる現象にすぎない。これに対して統覚が語っているのは、そうした移り変わる状態のすべてに、あらかじめ同伴していなければならない、形式的な統一そのものである。カントはこれを「純粋統覚」あるいは「根源的統覚」と呼び、経験的な自己意識と区別している。