私たちは当たり前のように、空間や時間を「外の世界に、最初からあるもの」だと思っている。机はそこにあり、今日という日はどこかから流れてきて、また流れ去っていく――そう感じている。

しかしカントは、『純粋理性批判』の冒頭に置かれた「超越論的感性論」で、この当たり前をひっくり返す。空間も時間も、物の側にある性質ではない。それは、私たちがものを感じ取るときに、すでに働いている、心の側の形式なのだ、と。

メガネのレンズとしての空間

少し不思議な言い方をすれば、空間はメガネのレンズのようなものである。何を見るにしても、私たちは必ずこのレンズを通して見る。レンズそのものを、レンズなしで見ることはできない。

カントは、空間が単なる概念ではなく、それ自体一つの直観であることを、いくつかの角度から示していく。たとえば、私たちは「空間がまったく存在しない」という状態を思い浮かべることはできないが、「空間の中に何もない」という状態なら思い浮かべることができる。これは、空間が個々の物から抽象して得られる一般概念ではなく、あらゆる外的経験に先立って、いわば土台として与えられているものであることを示している、とカントは論じる。

この結論を支えるもう一つの道筋が、幾何学という学問の性格である。幾何学の定理は、一つ一つの図形を経験的に測定して確かめられたものではなく、経験に先立って(アプリオリに)必然的に成り立つと分かる。空間がもし外の世界にある性質だとしたら、幾何学の定理がどうして経験を待たずに、必然的に正しいと分かるのか、説明がつかない。空間が私たちの直観の形式だからこそ、私たちはそれをアプリオリに把握できる、とカントは論じる。時間についても、変化や継起の概念そのものが時間の観念を前提にしていることなどから、ほぼ並行する議論が展開される。

感性の形式、という発想

私たちは何かを経験するとき、必ず空間的・時間的な形のもとでしか経験できない。だから空間や時間は、経験の中に見つかる対象ではなく、経験そのものを成り立たせている条件なのである。

ここでカントは、二つの言葉を対にして使う。空間・時間は、私たちにとっての経験の中では、疑いようのない「経験的実在性」をもつ――机の広がりも、今日という時間の流れも、幻ではなく、れっきとした現実である。しかし同時に、それは物自体の性質ではないという意味で、「超越論的観念性」をもつ。この二つは矛盾しない。むしろ、経験の内と外とで、空間・時間の身分を丁寧に分けて語ることこそが、カントの議論の核心である。

時間の、もう一つの特別な地位

空間と時間は、よく対の概念として語られるが、カントは時間に、空間にはない特別な地位を与えている。空間は、私たちの外にあるものを認識するための形式(外感の形式)である。これに対して時間は、外的な物についての表象も含めて、私たちの心の中に生じるすべての表象を秩序づける形式(内感の形式)である。

外の物を見るときも、その「見る」という心の働き自体は、時間の流れの中で生じている。だから時間は、外的な経験にも内的な経験にも、等しく関わってくる、より根本的な条件だということになる。空間についての議論が、いわば私たちの目や手が働く場の話だとすれば、時間についての議論は、心そのものが働く場の話なのである。

物自体への入り口

この考え方が重要なのは、それが「では、空間や時間のない物自体はどうなっているのか」という、次の巨大な問いへの入り口になっているからである。カントにとって、空間と時間は私たちの感性――感覚的に物を受け取る能力――の形式であって、物そのものの姿ではない。物がどうあるかを空間や時間ぬきに考えることは、私たちにはできない。けれども、だからといって物そのものが空間的・時間的だとは言えない、ということになる。

この一歩が、『純粋理性批判』全体の土台になっている。次に働き出すのが、もう一つの心の力――悟性とカテゴリー――である。