『純粋理性批判』の後半、超越論的方法論でカントは、これまでの議論全体を振り返りながら、理性の使い方そのものを整理し直す。その中心にあるのが「純粋理性のカノン」――理性の正しい使用のための規準――である。

理性にとって本当に重要な三つの問い

カントはここで、理性にとって本当に重要な問いを三つにまとめている。私は何を知ることができるか。私は何をなすべきか。私は何を希望してよいか。第一の問いには、これまで見てきた通り、感性と悟性の限界の中でしか答えられない、という慎重な答えが与えられる。

知識の限界を超えて、なお意味を持つ領域

しかし、第二・第三の問いは、知識の限界とは別の領域――実践理性の領域――で、なお意味を持ち続ける。道徳的に行為すべきであるということは、経験的な知識の証明を必要としない。むしろ、道徳的に生きようとする理性の要求こそが、最高善――徳と幸福とが一致した状態――を希望することを、理にかなったものにする。

理論理性の限界を確定したことの意義

知ることはできなくても、なお問い、なお希望してよい領域がある――ここに、カントが理論理性の限界を確定したことの、本当の意義がある。カント自身、知識に場所を残すために信仰の余地を残した、という趣旨の言葉を残しているが、それはまさにこのカノン論で示された道筋のことである。

最高善という究極目的

カントは、実践理性の究極目的を「最高善」――徳(道徳的に正しく生きること)と幸福とが、正当な割合で結びついた状態――に置く。徳を積んだ人が必ずしも幸福になるとは限らないのが、私たちの経験する世界の現実である。カントは、この徳と幸福の一致を保証する存在として、神の現存在と魂の不死を、理論的な証明としてではなく、実践理性が要請する信念として位置づけ直す。

意見・知識・信仰の区別

カノン論の第三節でカントは、私たちが何かを真だと認める態度を、意見・知識・信仰という三段階に整理している。根拠が主観的にも客観的にも不十分なら意見、両方とも十分なら知識、主観的には確信があるが客観的な証明はできない場合が信仰である。神の現存在についての態度は、この分類でいえば、道徳的な確信に支えられた「信仰」にあたる、とカントは位置づける。