魂・世界・神という理性の理念は、それ自体を認識の対象にしようとすると、誤謬推理・アンチノミー・理想の破綻へと行き着いてしまう。では、これらの理念は、理性にとってまったく無意味なものなのだろうか。カントの答えは、そうではない。

構成的使用と統整的使用

理念には、構成的な使用ではなく、統整的な使用という、もう一つの働き方がある。構成的とは、理念を直接、経験の対象を作り上げる規則として使うことであり、これは誤りを生む。統整的とは、理念を「あたかも~であるかのように」経験研究の方向を導く指針として使うことである。

科学と心理学における実例

たとえば、自然科学者は、あたかも自然全体が一つの体系的な統一を持つ「かのように」研究を進める。魂については、あたかも心のあらゆる働きが一つの単純な主体に属する「かのように」考えることで、心理学的探求に統一的な方向が与えられる。世界については、あたかも現象の系列が無限に遡れる「かのように」探求を続けることで、探求そのものが打ち切られずに済む。

知識ではなく、探求の方向を与える

理性の理念は、物についての知識を与えてはくれない。しかし、知識を求める私たちの営みそのものに、方向と統一を与える――そういう、控えめだが不可欠な役割を担っているのである。この統整的使用の発想は、『純粋理性批判』が単なる「できないことのリスト」ではなく、理性の正しい使い方を積極的に示す書物でもあることを、よく表している。

理性の統一を求める性向

カントは、理性にはそもそも、個々の認識をばらばらのままにせず、できるだけ少ない原理のもとに体系的にまとめ上げようとする、自然な性向があると考える。統整的使用とは、この性向を、行き過ぎた独断(構成的使用)に陥らせずに、正しく働かせるための考え方である。理念は、いわば地平線のようなものだ。地平線そのものに到達することはできないが、地平線を目指して歩くことで、探求はより遠くまで、より整った仕方で進んでいく。

目的論的な自然観との関係

この統整的使用の考え方は、後にカントが『判断力批判』で展開する、生物を目的論的に――あたかも意図をもって組み立てられたものであるかのように――理解する見方にもつながっていく。『純粋理性批判』における統整的使用は、こうして、カントの批判哲学全体を貫く一つの方法論的な態度として、後の著作にも受け継がれていくことになる。