魂、世界に続いて、理性が最後にたどり着く理念が「神」である。カントは、神の現存在を証明しようとする伝統的な議論――存在論的証明、宇宙論的証明、自然神学的証明――を、一つひとつ丹念に検討し、そのどれもが成立しないことを示していく。

「百ターラー」の例

なかでも有名なのが、存在論的証明への反論で使われる「百ターラー」の例である。可能な百ターラー(当時の貨幣)の概念と、実際に財布の中にある百ターラーとでは、概念の中身そのものは何も変わらない。しかし、財布の中にあるかどうかは、概念の分析だけからは決して出てこない。

存在は述語ではない

同じように、「完全な存在者」という概念をどれほど分析しても、その存在者が実際に存在するということは、概念の中から論理的に引き出すことはできない――存在は、述語ではないのである。これが、アンセルムスに遡る存在論的証明(神の概念そのものから神の存在を導く証明)への、カントの核心的な反論になる。

否定ではなく、越権の指摘

カントがここで示しているのは、神が存在しないということではない。理性が、経験を超えたものについて、概念の分析だけで存在を証明できるかのように振る舞ってしまう、その越権を指摘しているのである。魂・世界・神という三つの理念は、いずれも認識の対象としてではなく、別の仕方で――統整的に――理性のうちで働く場所を持つことになる。

宇宙論的証明・自然神学的証明への反論

カントは存在論的証明だけでなく、世界の存在から神という第一原因を導く宇宙論的証明、自然の秩序から設計者としての神を導く自然神学的証明も、丹念に検討する。宇宙論的証明は、実は隠れたところで存在論的証明に頼っており、自然神学的証明は、せいぜい非常に賢明な設計者の存在を示唆するにとどまり、絶対に完全な存在者の存在までは証明できない、とカントは論じる。

神学における理性の位置づけ

三つの証明すべてが不成立に終わることで、理論理性による神の存在証明という企て全体が、原理的に不可能であることが示される。しかしカントは、これによって信仰そのものを否定したわけではない。理論理性で証明できないからこそ、神の存在は、道徳的な実践理性の領域で、別の仕方で――希望してよいものとして――位置づけ直されることになる。この転換は、次に見る「統整的使用」の考え方と、深く結びついている。