『モナドロジー』は、番号を振った短い節を、順に積み上げていく書物である。その最初の節が、全体の出発点になる。「私たちがここで論じるモナドとは、複合体の中に入り込む単純実体にほかならない。単純とは、すなわち部分を持たないということである。」(§1)世界を構成する最小の単位は、部分を持たないもの、つまりそれ以上分けられないものだ、というのである。
複合体がある以上、単純なものがある
なぜ、そのようなものがなければならないのか。§2は言う。「複合体が存在する以上、単純実体も存在しなければならない。」理由は、「複合体とは単純なものの集積、すなわちaggregatum(アグレガトゥム)にほかならない」からである。複合体が集積である以上、集められる側に、もうそれ以上は集積ではないものがなければならない。
§3は、その単純なものの特徴を述べる。「部分がまったく存在しないところには、延長も、形も、分割の可能性もない。」そして、「これらのモナドこそ、自然の真のアトムであり、一言で言えば事物の要素である」。
始まるのも終わるのも、一挙にでしかない
部分がないということは、始まり方と終わり方にも関わる。§4は、「恐れるべき分解というものもなく、単純実体が自然に消滅しうる仕方は考えられない」と述べる。分解して消えるためには、分解される部分がなければならないからである。
始まりについても同じである。§5は言う。「同じ理由により、単純実体が自然に始まりうる仕方も存在しない。合成によって形成されることがありえないからである。」こうして、§6の結論に至る。「モナドは、創造によってのみ始まり、消滅によってのみ終わる。」これに対して複合体は、「部分によって始まりまた終わる」。
モナドをめぐるライプニッツの議論を、ライプニッツ自身がどのような順序で展開しているのか気になった方へ。
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モナドは窓を持たない
§7は、この定義から、有名な帰結を引き出す。「モナドの中には何も移し入れることができず、その内部にいかなる内的運動も考えることができない。」複合体では、部分の間に変化が生じるので、内的運動が励起され、方向づけられ、増大し、あるいは減少することもありうる。しかしモナドには部分がない(§1)ので、動かされるべき部分もない。
そこで、ライプニッツは書く。「モナドは窓を持たない。その窓を通って何かがそこに出入りするということはない。」偶有性、つまり実体に付随する性質も同様である。「実体も偶有性も、外部からモナドの中に入ることはできない。」外から何かが入り込んでモナドを変える、という仕方で、モナドの変化を説明することはできない。
しかし、モナドが部分を持たず、外から何も受け取らないなら、モナドはみな同じものにならないだろうか。そして、変化はどこから来るのか。次の記事では、§8以降を読む。