思考し、感じる機械が、仮にあったとする。その内部を、隅から隅まで調べたら、知覚は見つかるだろうか。『モナドロジー』の§17は、この問いに、否と答える。前の記事の終わりで触れた、単一性の中に多を包み込む状態を、ライプニッツは§14で「知覚」と呼んだ。その知覚がどこにあるのかを、この節が論じている。
水車小屋の思考実験
§17は、こう始まる。「知覚およびそれに依存するものは、力学的な理由によっては、すなわち形と運動によっては説明できないと認めざるをえない。」
そして、思考実験が示される。思考し、感じ、知覚を持つような構造を備えた機械があると仮定する。その機械を、同じ比率を保ったまま拡大し、「あたかも水車小屋の中に入るように」、その内部に入り込めるほどにする。そこで内部を訪れても、「そこに見出されるのは互いに押し合う部品だけであり、知覚を説明できるものは何も見出されないだろう」。
結論はこうである。「したがって、知覚を求めるべきは、複合体あるいは機械の中にではなく、単純実体の中にである。」そして、単純実体の中に見出しうるものは、知覚とその変化だけである。
エンテレケイアと魂
§18は、被造的な単純実体に、エンテレケイアという名を与えられるとする。理由は、それ自身のうちにある種の完全性を持ち、「それ自身の内的作用の源泉となるような自足性」を備えているからである。この自足性のゆえに、「モナドはいわば非物体的自動機械である」。
§19は、呼び名を区別する。知覚と欲求を持つものすべてを魂と呼びたいなら、すべてのモナドを魂と呼べる。しかし、知覚と欲求だけしか持たない単純実体には、モナドおよびエンテレケイアという名で十分であり、「魂と呼ばれるのは、知覚がより判明であり記憶を伴うもの、それらだけである」。
気を失っているとき、知覚はないのか
§20は、私たちの経験を取り上げる。「何も思い出さず、いかなる判明な知覚も持たない状態」、たとえば失神するときや、夢を見ない深い眠りの中にあるときである。この状態では、魂は単純なモナドと感覚的にはほとんど異ならない。しかし魂はそこから抜け出すのだから、「魂は単純なモナド以上の何か」である。
§21は、さらに進む。「そうかといって、そのとき単純実体がまったく知覚を持たないということにはならない。」単純実体は消滅しえず、何らかの変様、すなわち知覚なしには存続できないからである。判明なものが何もないほど多数の小さな知覚があるとき、私たちは放心状態に陥る。
§23は、目覚めのときの経験から、同じことを言う。放心状態から目覚めたとき、私たちは自分の知覚に気づく。ならば、そのときは気づいていなかったとしても、その直前にも知覚はあったはずである。「知覚が自然に生じうるのは、別の知覚からのみだからである。」§24は、判明なものが何もなければ、「私たちは常に放心状態にあることになるだろう」と述べ、それが完全に裸のモナドの状態だと言う。
知覚が単純実体のうちにあるなら、人間の推論は、何に支えられているのか。次の記事では、§25〜§30を飛ばして、私たちの推論が拠って立つ二つの原理(§31以降)を読む。