調べものをしているうちに、気づけば用事とは関係のないページを何時間も読んでいた。そんな経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。知ったところで得をするわけでもないのに、人はなぜ、知りたいと思ってしまうのか。『形而上学』は、この問いに答えるところから書き始められています。

知りたいという欲求は、どこに現れているのか

全十四巻の幕を開けるのは、「人間は誰しも、生まれつき知ることを欲する。その証拠は、感覚に対する人間の愛着である。」(980a)という一文です。証拠として挙げられるのは、壮大な理論ではなく、私たちの目です。感覚は、何の役に立つかということとは別に、それ自体のために愛される。とりわけ視覚がそうで、私たちは何かを行うためだけでなく、何も行おうとしていないときでも、見ることを選んでいます。視覚は、ほかのどの感覚よりも物を知らせ、多くの違いを明らかにしてくれるからです。

役に立つかどうかを考える前に、人はまず見て、知ろうとしている。知りたいという欲求は、あとから身につけるものではなく、生まれつき備わっている。これが出発点です。では、その「知る」には、どのような段階があるのか。

感覚から技術まで、知ることはどう高まっていくのか

アリストテレスは、動物から話を始めます。動物は生まれつき感覚を備えていますが、感覚から記憶が生じる動物もいれば、生じない動物もいる。記憶をもつ動物は、もたない動物よりも思慮に富み、学習の能力にも優れている。けれども、人間以外の動物は表象と記憶によって生き、経験に与ることはわずかです。人間においては、同じ事柄についての多くの記憶が、一つの経験をつくり上げます。そして、経験から技術が生まれます。

例に挙げられるのは医術です。カリアスがこの病気にかかったときにこの治療が効いた、ソクラテスにも同様に効いた。このように個々の場合について多くのことが分かっているのが、経験です。これに対し、粘液質の者や胆汁質の者が高熱に苦しむときには、このような人々すべてにこの治療が効く、という普遍的な判断をもつのが、技術です。

面白いのは、実践の場ではむしろ経験のほうが強いことを、アリストテレスが率直に認めている点です。医術を行う者が治すのは、人間一般ではなく、カリアスやソクラテスといった個々の誰かだからです。アリストテレスは、「したがって、経験なしに理屈だけをもち、普遍的なものは知っていてもそのうちに含まれる個々のものを知らない者は、治療を誤ることが多い。」(981a)と書きます。それでも私たちは、技術をもつ者のほうを、経験をもつ者よりも知恵ある者とみなしている。それは、なぜなのか。

知恵ある者とは、何を知っている者なのか

アリストテレスの答えは、「経験をもつ者はそうであるという事実は知っているが、なぜそうであるかを知らない。これに対し技術をもつ者は、なぜそうであるか、つまり原因を知っているのである。」(981a)というものです。だからこそ、あらゆる仕事で、棟梁は職人よりも知恵ある者とされます。職人は、火が物を焼くように、自分の行うことを知らずに、習慣によって行う。棟梁が知恵ある者とされるのは、実践に長けているからではなく、理屈をもち、原因を知っているからです。

知っている者と知らない者とを分ける印は、教えることができるかどうかだ、とも言われます。感覚は個々の事柄についてもっとも確かな知識ですが、知恵とはみなされません。なぜ火が熱いかは語らず、ただ火が熱いということだけを語るからです。さらに、多くの技術が見出されるなかで、生活の必要のためではない技術を見出した者のほうが、常により知恵ある者とされてきました。快楽のためでも生活の必要のためでもない知識が最初に見出されたのは、人々が最初に余暇を得た土地であり、数学に関する学問がまずエジプトで確立されたのは、そこでは祭司の一族が余暇を過ごすことを許されていたからだ、とアリストテレスは言います。

こうして、感覚、記憶、経験、技術という階段の上に、知恵が置かれます。知恵とは、ある種の原理と原因とに関わる知識である。これが最初の答えです。では、どのような原因と原理を知ることが、知恵なのか。

探し求められている知恵は、どのような知識なのか

アリストテレスは、知恵ある人について私たちがふだん抱いている考えを並べてみます。できるかぎりすべてのことを知っている人。人間には容易に知りえない、困難な事柄を知る人。より厳密で、より原因を教えることのできる人。結果のためではなく、知ることそれ自体のために知る人。そして、他人に従うのではなく、命じる立場にある人。

これらの想定は、どれも同じ一つの学へと行き着きます。普遍的なものを知る者は、ある意味で個々の場合のすべてを知っている。もっとも普遍的な事柄は、感覚からもっとも遠く離れているので、もっとも認識しがたい。少数の原理から出発する学ほど厳密であり、教えるとは、原因を示すことにほかならない。そして、もっとも知りうるものとは、第一のもの、すなわち原因です。さらに、もっとも統率的な学とは、それぞれのものが何のために為されるべきか、つまりそれぞれの善、さらには自然全体における最高の善を知る学です。こうしてアリストテレスは、探し求めている学について、「この学は、第一の諸原理と諸原因を考察するものでなければならない。」(982b)と言い定めます。善も、「そのために」ということも、原因の一つだからです。では、その学は、なぜ役に立つための知識ではないと言えるのか。

哲学は、何から始まったのか

答えは、最初に哲学した人々の様子に求められます。アリストテレスは、「人間は、はじめ、驚異の情によって哲学しはじめた。今日でも変わらない。」(982b)と書きます。はじめは身近にある不可解な事柄に驚き、それからしだいに、月や太陽や星々にまつわる現象、さらには万物の生成について、疑問を抱くようになった。疑い驚く者は、自分が無知であると思っている。だから、神話を愛する者も、ある意味では哲学者です。神話もまた、驚くべき事柄から成り立っているからです。

人が無知から逃れるために哲学したのなら、それは何かの役に立てるためではなく、知ることそれ自体のためだった。その証拠に、この種の思慮が求められはじめたのは、生活の必需品や、安楽と快適のための事柄がほぼすべて整ってからでした。他人のためにではなく自分自身のために存在する人を自由な人と呼ぶように、それ自体のために存在するこの学問だけが、あらゆる学問のうちで唯一自由な学問である、とアリストテレスは言います。神がもっともよくもつであろう学であり、神的な事柄を対象とする学でもあるという意味で、この学はもっとも尊い学だ、とも言われます。ほかの学問はこの学より必要ではあっても、この学より優れたものは一つもない。

冒頭の問いへの答えは、ここにあります。人が役に立たないことまで知りたがるのは、人間が、知ることそのものを求める存在だからです。けれども、それなら、人はいつまでも驚いたままでいるのでしょうか。

驚きは、どこへ行き着くのか

アリストテレスは、驚いたままでいることを勧めているわけではありません。知恵の獲得は、当初の探求とは、ある意味で正反対の状態へと落ち着かなければならない、と言います。例に挙げられるのは、対角線の通約不可能性、つまり対角線が、最小の単位によっては測り切れないことです。原因をまだ考察したことのない人には、これは驚くべきことに見えます。ところがアリストテレスは、「というのも、幾何学者にとって、もし対角線が計測可能なものになったとしたら、それ以上に驚くべきことはないであろうからである。」(983a)と書きます。

驚きから始まった探求は、原因を知ることによって、驚かない理解へとたどり着く。探し求める知恵の輪郭は、こうして描かれました。それは、第一の原因と原理を知る知識です。では、その「原因」とは何であり、最初に哲学した人々は、それをどこに探したのか。