身体が滅びたあと、精神はどうなるのか。『エチカ』第5部の定理23は、「人間精神は、身体とともに端的に破壊されることはできない。精神のうちの或るものが残り、それは永遠である」と述べる。この命題を、順にほどいてみよう。

想像と記憶は、身体の持続に結びついている

まず、定理21がある。精神は、身体が持続するのでなければ、何も想像することができず、過ぎ去ったものを想起することもできない。証明によれば、精神は、身体が持続するのでなければ、自分の身体の現実的存在を表現せず、身体の変状を現実的なものとして考えることもないからである。身体が持続しなければ、想像も記憶もありえない。

神のうちに、身体の本質の観念がある

しかし、とスピノザは続ける。定理22は、「神のうちには、あれこれの人間の身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が、必然的に与えられる」と述べる。証明の根拠は、第1部定理25である。神は、あれこれの人間の身体の存在の原因であるだけでなく、本質の原因でもある。それゆえ、この本質は神の本質そのものを通して必然的に考えられねばならず、しかも、ある永遠な必然性によって考えられねばならない。

残る「或るもの」

定理23の証明は、これらを組み合わせる。神のうちには、人間の身体の本質を表現する概念すなわち観念が、必然的に与えられる。この観念は、必然的に、人間精神の本質に属する何ものかである(第2部定理13)。ところで、私たちが人間精神に、時間によって限定されうる持続を帰するのは、精神が、持続によって説明され、時間によって限定されうる、身体の現実的存在を表現する限りにおいてだけである。しかしそれでもなお、神の本質そのものを通して、ある永遠の必然性をもって考えられる何ものかがある。したがって、精神の本質に属するこの何ものかは、必然的に永遠である。

永遠は、時間のなかを続くことではない

ここで言われる「永遠」は、持続や時間によって説明されるものではない。第1部の定義8によれば、永遠性とは、永遠なものの定義だけから必然的に帰結すると考えられる限りでの、存在そのもののことである。その説明は、持続が始まりも終わりももたないと考えられるとしても、永遠性は持続や時間によって説明することはできない、と述べている。定理23の備考もこれを受けて、永遠性は時間によって限定されることも、時間と何らかの関係をもつこともできない、と言う。

そのため、私たちは身体より前に存在したことを思い出すことができない。しかしスピノザは、それでも私たちは、自分が永遠であることを感じ、経験している、と言う。精神は、理解することで考えるものを、記憶のうちにもつものに劣らず感じるからである。「精神の目、すなわち精神がものを見て観察する目は、証明そのものである。」精神が持続すると言われ、その存在が一定の時間によって限定されうるのは、精神が身体の現実的存在を含む限りにおいてだけである。

定理29の備考は、永遠の相のもとに考えるとはどういうことかを説明している。ものは、二通りの仕方で、私たちによって現実的なものとして考えられる。特定の時間と場所との関係において存在すると考える場合と、神のうちに含まれ、神の本性の必然性から帰結すると考える場合である。後者の仕方で真なるものとして考えられるものを、私たちは永遠の相のもとに考える。

精神のこの永遠な部分が、第三種の認識、そして神に対する知的愛とどのように結びつくのかは、続く定理で展開される。第5部の定理32の系は、第三種の認識からは、神に対する知的愛が必然的に生じる、と述べている。