あるものを善いと判断するから、人はそれを求める。ふつう、そう考える。ところが、『エチカ』第3部の定理9の備考は、順序を逆にする。「私たちは、あるものを善いと判断するから、そのものに向かって努力し、意志し、求め、欲するのではない。むしろ反対に、私たちがあるものを善いと判断するのは、そのものに向かって努力し、意志し、求め、欲するからである。」この結論に至る道筋を、定理6から順にたどってみよう。

ものは、自己の存在に固執しようと努力する

定理6は、「各々のものは、自己のうちにあるかぎり、自己の存在に固執しようと努力する」と述べる。証明の中心は、次のとおりである。個物は、神の属性が一定の限定された仕方で表現される様態であり、すなわち、神が存在し能動するその力能を、一定の限定された仕方で表現するものである。ところで、いかなるものも、自己のうちに、それによって破壊されうるもの、言い換えればその存在を除くものを何ももたない(定理4)。ものはむしろ反対に、その存在を除きうるあらゆるものに対立する(定理5)。それゆえ、ものはできるかぎり、また自己のうちにあるかぎり、自己の存在に固執しようと努力する。

努力は、そのもの自身の本質である

続く定理7は、さらに踏み込む。「各々のものが自己の存在に固執しようと努力するその努力は、そのもの自身の現実的本質にほかならない。」どんなものでも、その本質が与えられれば、そこからある事柄が必然的に帰結する。ものは、自らの限定された本性から必然的に帰結すること以外をなしえない。だから、ものが自己の存在に固執しようと努力する力能あるいは努力は、そのもの自身の与えられた、すなわち現実的な本質にほかならない。

定理8は、この努力が有限な時間ではなく、不定の時間を含むと述べる。もし努力が限定された時間を含み、その時間がものの持続を決定するとすれば、ものが存在するそのまさに力能だけから、ものはその限定された時間の後には存在できず、破壊されなければならないということが帰結してしまう。これは不合理である。ものは、どんな外部の原因によっても破壊されないなら、すでに存在しているのと同じ力能によって、いつまでも存在し続けるからである。

人間の場合:意志、衝動、欲望

定理9は、これを精神に当てはめる。精神は、明晰判明な観念をもつかぎりでも、混乱した観念をもつかぎりでも、ある不定の持続のあいだ自己の存在に固執しようと努力し、またこの自らの努力を意識している。証明は、次のとおりである。精神の本質は、十全な観念と非十全な観念から構成されている(定理3)。それゆえ、精神は、どちらの観念をもつかぎりでも、自己の存在に固執しようと努力する。しかも精神は、身体の変状の観念を通して必然的に自己を意識する(第2部定理23)。したがって、精神は自らの努力を意識している。備考によれば、この努力は、精神だけに関係づけられるときは意志と呼ばれ、精神と身体に同時に関係づけられるときは衝動と呼ばれる。したがって衝動とは、人間の本質そのものにほかならない。衝動と欲望のあいだには、欲望が、人間が自らの衝動を意識しているかぎりで、たいてい人間に関係づけられるという点を除いて、違いはない。欲望とは、その衝動の意識を伴う衝動である。

ここで、前の記事までの話がつながる。人が自分を自由だと思うのは、自分の意欲と衝動は意識していても、自分をそこへ向かわせる原因は知らないからであった。その衝動と欲望は、各々のものが自己の存在に固執しようとする努力が、人間において現れたものである。人はまず努力しており、そのあとで、その努力が向かうものを善いと呼ぶ。善と悪の定義は、第4部の冒頭に置かれている。第3部の定理8は、この努力が不定の時間を含むと述べていた。では、人間精神の持続の先には、何があるのか。次の記事では、第5部を読む。