私たちは、自分の行いを自分で選んでいると感じている。『エチカ』は、この感覚の出どころを調べる。第2部の定理35の備考は、人々が誤るのは自分を自由だと思っているからだ、と述べる。そして、この思い込みは、自分の行為は意識しているが、自分を決定している原因は知らない、というこの一点にのみある、と言う。したがって、自分の行為の原因を何も認識しないということが、人々の自由の観念である。

意志とは、何か

人間の行為は意志に依存する、と人々は言う。しかしスピノザによれば、それは、観念を何も持たない言葉である。意志とは何か、意志がどのように身体を動かすのかを、すべての人は知らないからである。

この備考は、太陽の例も挙げている。太陽を見つめるとき、私たちは、太陽が私たちから約200フィート離れていると想像する。誤りは、この想像だけにあるのではなく、太陽をそのように想像するとき、その真の距離と、この想像の原因を知らないという点にある。たとえ後に、太陽が地球の直径の600倍以上離れていると知っても、それでも太陽は近くにあると想像する。この例では、誤りは想像だけにあるのではなく、その真の距離と想像の原因を知らないという点にある。

乳児も、酔った人も、自由だと信じている

第3部の定理2の備考は、日常の例をいくつも挙げる。乳児は自由に乳を求めていると信じ、怒った子どもは復讐を望んでいると、臆病な者は逃走を望んでいると信じる。酔った人は、あとで素面になれば語らなければよかったと思うことを、精神の自由な決意から語っていると信じる。うわごとを言う人、おしゃべりな女、子どもも同様である。しかし実際には、彼らは自分がもつ語りたいという衝迫を抑えることができない。もし人々が、後で後悔することを多く行い、相反する感情に苦しむときには、よりよいものを見ながらより悪いものに従う、という経験をしていなければ、私たちはすべてを自由に行うと信じることを妨げるものは何もないだろう、と彼は言う。

スピノザは言う。経験そのものが、理性に劣らず明晰に、次のことを教えている。人間が自分を自由だと信じるのは、ただ自分の能動を意識していて、自分を決定する原因を知らないという理由によること。さらに、精神の決意は衝動そのものにほかならず、それゆえ衝動は身体の状態が異なるのに応じて異なること。

決意と決定は、一つのものである

ここから、精神の決意も、衝動も、身体の決定も、本性上同時であり、というよりむしろ一つの同一のものであることが示される、と彼は述べる。そのものを、思考の属性のもとで考え、その属性を通して説明するときには決意と呼び、延長の属性のもとで考え、運動と静止の法則から導くときには決定と呼ぶのである。前の記事で見た、精神と身体は一つの同一のものだという見方が、ここでも働いている。

さらに、夢が持ち出される。語っている夢を見るとき、私たちは精神の自由な決意から語っていると信じるが、実際には語っていない。そこでスピノザは、精神には空想的な決意と自由な決意の二種類が与えられるのかどうかを、ぜひ知りたい、と問う。そして結論する。精神のこれらの決意は、現実に存在するものの観念と同じ必然性で、精神のうちに生じる。したがって、精神の自由な決意から語り、黙り、あるいは何かを行っていると信じる人々は、「目を開けたまま夢を見ている」のである。

では、スピノザにとって、自由とは何なのか。第1部の定義7には、別の定めがある。自分の本性の必然性だけから存在し、自分だけによって行為へと決定されるものが、自由なものだ、というのである。それなら、人間は何によって動かされているのか。次の記事では、第3部の「努力」を読む。