腕を上げようと思って、腕を上げる。精神が決めて、身体が動く、とふつうは考える。ところが、『エチカ』第3部の定理2は、「身体は精神を思考へと決定することができず、精神も身体を運動へも静止へも、またそのほかに何かあるとしても、それへも決定することができない」と述べる。どういう理由で、そう言えるのだろうか。

二つの連鎖は、交わらない

証明は、第2部定理6を手がかりに進む。思考のあらゆる様態は、神が思考するものである限りでの神を原因としてもち、他の属性によって説明される限りでの神を原因としてもたない。したがって、精神を思考へと決定するものは思考の様態であって、延長の様態ではない。すなわち、身体ではない。他方、身体の運動と静止は、別の物体から生じなければならず、思考の様態である精神からは生じえない。

一つの同じものを、二つの仕方で見ている

備考は、第2部定理7の備考を指して、次のように言う。「精神と身体は一つの同一のものであり、そのものが、あるときは思考の属性のもとで、あるときは延長の属性のもとで考えられるのである。」その第2部定理7の備考には、延長の様態と、その様態の観念も一つの同じものであり、二つの仕方で表現されている、とある。例として、自然のうちに存在する円と、神のうちにもある、存在する円の観念とは、一つの同じものであり、異なる属性を通して説明される、と述べられる。

第2部の定理13も、人間精神を構成する観念の対象は身体であり、現実に存在する延長の一定の様態であって、それ以外の何ものでもない、と述べている。それゆえ、自然を延長の属性のもとに考えても、思考の属性のもとに考えても、秩序、すなわちものの連鎖は一つである。身体の能動と受動の秩序は、本性上、精神の能動と受動の秩序と同時である。自然がどの属性のもとで考えられても、秩序、すなわちものの連鎖は一つである、と見ればよいのである。

身体は、何をなしうるのか

スピノザは、この事柄を経験によって確かめなければ、人々が平静な心で考える気にはなれないだろう、と見ている。そこで、経験に訴える。人々は、身体がただ精神の意のままに動くと固く信じ込んでいる。しかし、身体が、身体的なものとしてのみ考えられる限りでの自然の法則だけから、何を行うことができ、何を行うことができないかを、経験はこれまで誰にも教えていない。身体の構造を、そのすべての働きを説明できるほど正確に知った人は、誰もいないからである。

スピノザは、言わないでおくと断りながら、動物には人間の知恵をはるかに超えるものが多く観察されることや、夢遊病者が眠りのなかで、目覚めているときにはあえてしないことを数多く行うことに触れる。これらは、身体そのものが、自らの本性の法則だけから、その精神が驚くようなことを多くなしうることを示している。しかも、どのような仕方で、どのような手段で精神が身体を動かすのかを、誰も知らない。だから、身体のこれこれの能動は、身体に対して命令権をもつ精神から生じる、と人々が言うとき、彼らは自分が何を言っているのか知らず、その能動の真の原因を知らないと告白しているにすぎない、とスピノザは述べる。

精神が考案に適していなければ身体は不活発なままだ、と人々は反論するだろう。しかし、逆に、身体が不活発であれば、精神もまた思考に不適になることを、経験は教えている。身体が眠りのなかで静止しているとき、精神も身体とともに眠ったままである。精神が身体を動かすという見方は、こうして、一つのことを二つの属性のもとで見る見方に置き換えられる。それでも人々は、語ることも黙ることも自分の精神の権能のうちにあると信じている。その信念がどこから来るのかは、次の記事で読む。