『エチカ』第1部は、神が必然的に存在し、自らの本性の必然性だけから働くことを示したあと、付録に入る。そこでスピノザは、証明の理解を妨げる先入見を取り上げる。人々が一般に、すべての自然のものは人間自身と同じように目的のために働くと想定し、それどころか神自身がすべてをある定まった目的へ向けていると確信している、という先入見である。人々は、神はすべてを人間のためにつくり、人間は神を崇めるようにつくったと言う。

先入見は、どこから生まれるのか

スピノザが基礎に置くのは、すべての人に認められているはずの二つのことである。人間はものの原因を知らずに生まれること、そして、すべての人が自分にとって有益なものを求める衝動をもち、そのことを意識していることである。ここから、第一に、人々は自分を自由だと思うことが帰結する。自分の意欲と衝動は意識していても、自分をそこへ向かわせる原因は知らないからである。第二に、人々はすべてを目的のために、すなわち自分が求める有益なもののために行うことが帰結する。

だから人々は、なされたことについて、目的因だけを知ろうとする。目的を聞けば、それ以上疑う理由がなく、安心する。他人から聞けないときは、自分が似たことをするときの目的を振り返り、自分の気質から他人の気質を判断する。さらに、人々は、見るための目、噛むための歯、食物としての草や動物、照らすための太陽、魚を養うための海のように、自分の役に立つ手段を、自分のうちにも外にも数多く見いだす。そこで、自然のものをすべて有益なもののための手段とみなし、それらを用意した誰かがいると信じるようになった。

ほころびを、どう取りつくろったか

自然の利益のなかには、嵐、地震、病気などの不利益も見いだされる。人々は、これらが起こるのは、神々が人間から加えられた侮辱や、崇拝における罪のために怒っているからだと定めた。経験は、利益も不利益も敬虔な人にも不敬な人にも区別なく起こることを、無数の例で示している。それでも人々は、古くからの先入見をやめなかった。というのも、この事態を、用途を知らない未知のものの一つに数え、生まれつきの無知の状態を保つほうが、建造物全体を壊して新しいものを考え出すよりも容易だったからである。

石は、何のために落ちたのか

スピノザは、目的を主張する人々の論証の仕方を、例で示す。屋根から石が誰かの頭に落ち、その人を殺したとする。人々は、神が望んで石が落ちたのでなければ、これほどの状況が偶然に重なるはずがないと言って、石は人を殺すために落ちたと証明する。風が吹いたからだと答えれば、なぜそのとき風が吹いたのか、なぜその人はそこを通っていたのか、と問い詰められる。海が荒れ始めていたからであり、その人は友人に招かれていたからだと答えても、問いは終わらず、なぜ海は荒れたのか、なぜその人はその時に招かれたのか、と続く。

こうして彼らは、あなたが「神の意志、すなわち無知の避難所」に逃げ込むまで、原因の原因を問うことをやめない。スピノザはこれを、不可能への還元ではなく、無知への還元と呼ぶ。

目的の教説が、覆してしまうもの

さらにスピノザは、目的についての教説は、自然をまったく覆すと言う。実際に原因であるものを結果とみなし、結果であるものを原因とみなす。本性上先であるものを後にし、最高で最も完全なものを最も不完全なものにする。そして、神が目的のために働くなら、神は必然的に、自分に欠けているものを求めることになり、神の完全性は取り去られる。

付録の後半では、善と悪、秩序と混乱、美と醜といった概念も、同じ先入見から生じたものとして扱われる。たとえば秩序は、感覚を通して表象されたものが、容易に想像できるように配置されているときに、私たちが「よく秩序づけられている」と言うものである。民衆が自然を説明するときに用いるあらゆる概念は、単に想像の仕方にすぎず、どんなものの本性も示していない、とスピノザは見る。ただし付録は、これらを人間の精神の本性から導くことは、ここですべきことではない、と断っている。人間の精神と身体は、のちに論じられる。次の記事では、精神と身体の関係を読む。