偶然とは何か。『エチカ』第1部の定理29は、「自然のうちには、偶然的なものは何も与えられない」と述べる。そして、「すべてのものは、神の本性の必然性から、一定の仕方で存在し作用するように決定されている」と続ける。この主張が、どのような証明で支えられているのかを見てみよう。
すべては、神の本性から必然的に帰結する
前の記事で見たとおり、あるものはすべて神のうちにある(定理15)。ところで神は、偶然にではなく必然的に存在するので、偶然的なものと言われることができない(定理11)。次に、神の本性の様態も、同じ神の本性から、偶然にではなく必然的に帰結した(定理16)。さらに神は、様態が単に存在する限りでその原因であるだけでなく、様態が何かを作用するように決定されたものと考えられる限りでも原因である。
そうだとすれば、もし様態が神によって決定されていないなら、様態が自分自身を決定することは、偶然的なのではなく不可能である。逆に、もし神によって決定されているなら、様態が自分自身を非決定にすることもまた、偶然的なのではなく不可能である。こうして、すべてのものは、神の本性の必然性から、単に存在するように決定されているだけでなく、一定の仕方で存在し作用するようにも決定されている。したがって、偶然的なものは何も与えられない、というのが証明の道筋である。
別の仕方では、産出されえなかった
定理33は、さらに強い形で述べる。「ものは、実際に産出されたのとは別の仕方でも別の秩序でも、神によって産出されることはできなかった。」その証明は、次のようなものである。もしものが別の本性のものでありえたとしたら、あるいは自然の秩序が別のものになるように、別の仕方で作用するよう決定されえたとしたら、神の本性もまた、現にあるのとは別のものでありえたことになる。すると、その別の本性もまた存在しなければならないことになり(定理11)、結果として複数の神が存在しうることになる。これは、定理14の系1により不合理である。
偶然という言葉は、何を指しているのか
それでも、私たちは日常的に「偶然」という言葉を使う。この点を、定理33の備考1が説明している。あるものが必然的と言われるのは、その本質のゆえか、原因のゆえかのどちらかである。あるものが不可能と言われるのは、その本質あるいは定義が矛盾を含むか、あるいは、そのようなものを産出するように決定された外的原因が存在しないかのどちらかである。
これに対して、あるものが偶然的と言われるのは、「私たちの認識が欠けていることに関してのほかには、いかなる理由もない」。本質が矛盾を含むかどうかを私たちが知らないもの、あるいは、本質が矛盾を含まないことは十分に知っていても、原因の秩序が私たちに隠れているために、その存在については確かなことを何も断言できないもの、そうしたものを、私たちは偶然的あるいは可能的と呼ぶのである。あるものが偶然的と言われるのは、私たちの認識が欠けているからにほかならない、ということになる。
神が、別のことを望んでいたとしたら
定理33の備考2では、反対の立場が取り上げられる。ものが現にあるとおりであるのは、ただ神の意志にのみ依存するのだから、神が望めば、ものは別のあり方でありえたはずだ、という立場である。スピノザは、こう答える。もし神が自然とその秩序について、現に決意したのとは別のことを決意していたとしたら、神は必然的に、現にもつのとは別の知性と別の意志をもっていたことになる。ところが、神の知性も神の意志も神の本質から区別されないことは、すべての人が認めているとおりである。したがって、神の本質もまた別のものになったことになるが、これは不合理である。
偶然を退けたこの自然は、何かの目的に向かって定められているのだろうか。次の記事では、第1部の付録を読む。