第一部第一章は、「思弁哲学」の定義から始まる。「思弁」と聞くと、根拠のない空想を思い浮かべる人もいるかもしれない。ホワイトヘッドは、それとは違う意味でこの語を使う。
定義と、四つの要件
第I節の定義は、こうである。「思弁哲学とは、われわれの経験のあらゆる要素がそれによって解釈されうるような、一貫した、論理的な、必然的な一般観念の体系を組み立てようとする試みである。」
「解釈」とは何か。ホワイトヘッドは言う。それは、「享受され、知覚され、意志され、あるいは思考されるものとして、われわれが意識するすべてのものが、その一般的体系の特殊な一事例としての性格をもつ」ということである。そこで、哲学的体系は、一貫しており、論理的であり、その解釈に関して適用可能かつ適合的でなければならない。
四つの語は、それぞれ定められている。「適用可能」とは、経験のいくつかの項目がそのように解釈可能であることを意味する。「適合的」とは、そのような解釈が不可能な項目が存在しないことを意味する。「一貫性」とは、体系が展開されるところの基本観念が、「たがいを前提し合っており、したがって孤立していては無意味である」ということを意味する。
この一貫性は、観念が互いによって定義できる、という意味ではない。むしろ、定義できない観念が、他の観念への関連から切り離して抽象されえない、ということである。さらに第I節は、このことを、宇宙の側から言い直す。「いかなる存在も、宇宙の体系から完全に切り離して考えることはできず、この真理を示すことが思弁哲学の仕事である」。
第I節はまた、この理想に、二つの側面があると言う。合理的側面は「一貫した」「論理的な」という語で、経験的側面は「適用可能な」「適合的な」という語で表現される。
発見の方法は、飛行機の飛行に似ている
では、そのような体系は、どのように作るのか。第II節は、まず、哲学者がこれらの第一原理を、最終的に定式化することを望めない、と述べる。その理由は、洞察の弱さと言語の欠陥である。言葉は、通常の用法にはなじまない一般性へと引き伸ばされねばならず、専門用語として固定されても、「依然として比喩にとどまり、想像力の飛躍を求めて無言のうちに訴えかけ続ける」。
そこで示されるのが、有名な比喩である。「発見の真の方法は、飛行機の飛行に似ている。それは、個別的な観察という地面から出発する。それは、想像的一般化という希薄な大気のなかを飛行する。そしてそれは、合理的解釈によって鋭さを与えられた、新たな観察のために、再び着陸する。」
その前に、ホワイトヘッドは、観察だけで進もうとする方法を退けている。自然科学においてその方法とは、ベーコン的な帰納の方法であり、「もしそれが一貫して追求されるならば、科学をそれが見出した地点にとどめ置いたであろう」。ベーコンが見落としたのは、一貫性と論理の要請によって制御された、自由な想像力の働きだった、という。
この方法の成功は、どう測られるのか。第II節は言う。「成功の目安は、直接の起源を超えた適用である。」物理学から出発した一般化が、物理学を超えた経験の領域にも適用を見出すとき、一般化は成功している、というのである。
では、一般化が成功したとき、哲学はどんな誤りに陥りやすいのか。次の記事では、第III節の「具体性置き違えの誤謬」を読む。