同じ本を、一人は物語として読み、もう一人は本当にあった歴史として読む。二人の目に入る文字は同じで、意味もすれ違わない。それでも、読み終えたあとに残るものは同じだろうか。信じることと、ただ思い描くことは、いったいどこが違うのか。ヒュームは『人間本性論』第1巻第3部の第7節と第8節で、この素朴な問いに取り組んでいる。
信じても、観念は何も増えない
まず出発点になるのは、信念が観念の内容を変えるのではない、という確認である。ヒュームによれば、あるものを単に思い描いたあとで、それを存在するものとして思い描き直しても、最初の観念には何も付け加わらない。神について考えるときも、神を存在するものとして考えるときも、神が存在すると信じるときも、神についての観念は増えも減りもしない。
ヒュームはまず結論を先に述べる。信じることと単に思い描くことの間に大きな違いがあるのは確かだが、その違いは観念の部分や組み立てにはない。そこで、「その違いは、観念を思い描く仕方にあるはずだ」というのである。
同じ問いは、別の例でも繰り返される。隣の人が、カエサルは寝床で死んだ、といった命題を述べたとしよう。私はそれを信じないが、彼の言う意味ははっきり分かり、彼が形づくる観念を、私もまったく同じように形づくれる。直観や論証で確かめられる命題なら、反対のことは思い描けないので、同意は避けられない。ところが原因と結果にもとづく事実の問題では、想像力は問いの両方の側を自由に思い描ける。ここでも観念の部分や組み立てには違いがなく、残るのは思い描き方だけである。ヒュームは、多くの組み合わせの中からどれか一つを固定する原理があってはじめて意見が成り立つと言い、その原理は観念に何も付け加えられないので、思い描き方を変えるしかないと補強している。
違いは、力と生気の度合いにある
では、思い描く仕方とは何か。ヒュームは、心のすべての知覚が印象と観念に分かれ、両者はただ力と生気の度合いが違うだけだ、という先の議論を持ち出す。観念を別の対象の観念にしてしまわずに変えられるのは、その力と生気を増したり減らしたりすることだけである。同じ色合いが、色そのものを変えずにより明るくなりうるのと同じことだ。したがって信念が観念に与えられるのも、付加的な力と生気にほかならない。こうして、信念は最も正確には「現前する印象に関係づけられた、またはそれと連合した生き生きとした観念」と定義される。
冒頭の読書の例に戻ろう。物語として読む人と歴史として読む人は、同じ観念を同じ順序で受け取る。しかし後者は、出来事をより生き生きと思い描き、登場人物の関心事に深く入り込み、顔つきや物腰まで思い浮かべるに至る。前者の想念は、それより弱くぼんやりしている。ヒュームは、この定義がすべての人の感じと経験によく適合すると言う。
生気は、現前する印象から伝わる
それなら、観念に生気を与えるのは何か。ヒュームの答えは、現前する印象である。何らかの印象が心に現れると、心はそれに関係づけられた観念へ運ばれ、そのとき印象は自らの力と生気の一部をその観念に伝える。
実験として挙げられるのは、不在の友人の絵である。絵を見ると、友人の観念は類似によって活気づき、それに伴う喜びや悲しみも新たな力を得る。絵が彼に似ておらず、彼を描いたものでもなければ、思考は彼のもとへ運ばれもしない。また、絵も本人も不在のまま一方の思考から他方へ移っても、観念は活気づくどころか、かえって弱まる。生気を生むには、関係と現前する印象の両方がそろわなければならない。ヒュームはこの原理が、類似だけでなく近接や因果の関係でも働くとして、例を重ねている。
信念は、習慣から生じる
因果の推論では、現前する印象と、そこから推理される観念とのあいだに、何が働いているのか。ヒュームはまず、初めて現れた印象からは何の結論も引き出せないことに注意する。その印象が別の印象と恒常的に連接しているのを過去に見ていてはじめて、信念の基礎になる。次に、この信念は理性や想像力の新たな作用なしに直接に生じる。新しい推論なしに過去の反復から生じるものを、われわれは習慣と呼ぶ。したがって、印象に続く信念は、もっぱらこの習慣に由来する。最後の実験では、最初の印象を観念に置き換える。すると習慣的な移行は残るのに、信念は生じない。現前する印象は、この作用全体に欠かせないのである。
こうしてヒュームは、「蓋然的な推論はすべて、感覚の一種にすぎない」と述べる。趣味と感情に従わなければならないのは詩と音楽だけでなく、哲学でもそうだという。ある原理を確信するとき、それはより強く心を打つ観念にすぎず、ある論拠を別の論拠より好むとき、人は自分に及ぶ影響の優劣についての感じによって決めているにすぎない。
ここでヒュームは、過去の経験がほとんど気づかれないほどひそかに作用することさえある、と注意を促す。旅の途中で川に行き当たって立ち止まる人は、先へ進んだ場合の帰結を予見する。しかしそのとき、彼が過去の事例を思い出して推論しているとは考えられない。過去を振り返るより先に、習慣のほうが働いてしまうのである。
ここで一つの疑問が残る。習慣によって、ある対象の次に別の対象が来るという信念が生じるというが、その結合とは、そもそも何なのか。原因と結果のあいだに必然的な結合があると、われわれはなぜ考えるのか。次の記事では、必然的結合の観念がどこから来るのかを取り上げる。