前の記事の終わりで、充足理由あるいは究極の理由は、偶然性の連鎖の外になければならない、という結論が出た。『モナドロジー』の§38以降は、その外にあるものが何なのかを、一歩ずつ明らかにしていく。
連鎖の外にあるもの
§38は言う。「こうして、事物の究極の理由は、必然的な実体の中になければならない。」この実体においては、変化の詳細は、いわば源泉の中にあるように、卓越した仕方でのみ存在する。そして、「これこそ私たちが神と呼ぶものである」。
§39は、神の唯一性を述べる。この実体はこの詳細のすべてに対する充足理由であり、しかもその詳細はいたるところで結びついているのだから、「神はただ一つのみ存在し、この神で十分である」。
神は絶対的に完全である
§40は、この最高実体が、それ自身の外に、それに依存しないものを何も持たないのだから、限界を持ちえず、可能な限りのあらゆる実在性を含んでいなければならない、と述べる。§41は、そこから、神は絶対的に完全であることが帰結するとする。
ここで、完全性が定義される。「完全性とは、実在性のうちに限界のあるものについてはその限界を度外視して、正確に捉えられた積極的実在性の大きさにほかならない。」限界がまったくない神においては、完全性は絶対的に無限である。
§42は、被造物との違いを示す。被造物は、その完全性を神の影響から得ているが、その不完全性は、「限界を持たざるをえない被造物自身の本性」から得ている。被造物が神から区別されるのは、まさにこの点による。
神は、可能性の源泉でもある
§43は、もう一歩進む。「神のうちには、もろもろの現実存在の源泉だけでなく、実在的なものとしての本質の源泉、すなわち可能性のうちにある実在的なものの源泉もある。」神の知性が、永遠の真理の領域だからである。その結果、神なしには、現実に存在するものが何もないだけでなく、「可能なものすら何もないだろう」。
§44は、その理由を述べる。本質あるいは可能性のうちに実在性があるなら、その実在性は、何か現実に存在するものの中に基礎づけられていなければならない。それは必然的存在者の現実存在の中であり、そこでは、本質が現実存在を包み込んでいる。
§45は、神の存在証明に至る。「神のみ(あるいは必然的存在者のみ)が、可能であるならば必ず現実存在するという特権を持つ。」いかなる限界も否定も矛盾も含まないものの可能性を妨げるものはないのだから、この一事だけで、神の現実存在をア・プリオリに知るのに十分である。さらに、偶然的な存在者が現実に存在することからも、ア・ポステリオリに証明される。
§46は、一つ注意を加える。永遠の真理が神の意志に依存し、恣意的だと考えてはならない。それが言えるのは、偶然的な真理についてだけである。必然的な真理は、「もっぱら神の知性のみに依存し、その内的対象をなす」。
次の記事では、§47〜§55を飛ばして、被造物どうしがどう結びついているかを論じる§56以降を読む。