ソクラテスは、死刑になるかもしれない法廷に立っています。彼はなぜ、死をおそれなかったのでしょうか。強がりだったのか、それとも、死のあとに良いことが待っていると確信していたのでしょうか。

プラトンの『ソクラテスの弁明』を読むと、答えはそのどちらでもないことが分かります。ソクラテスは、二つの理由を挙げています。ひとつは、何かをするときは危険ではなく、正しいかどうかを考えるべきだということ。もうひとつは、死について知らないのに悪いと決めて恐れるのは、知らないことを知っていると思い込むことだということです。不正が悪いと知っていることが、その支えになっています。この二つが、どのように語られるのかを、訳文にそって見ていきましょう。

恥ずかしくはないのか、と問われて

メレトスの告訴状についての反論を終えたソクラテスは、これ以上多くの弁明は必要ないと言います。そのうえで、もし有罪となるなら、それをもたらすのはメレトスでもアニュトスでもなく、多くの人々の中傷と妬みだと語ります。それは、これまでにも多くの善き人々を滅ぼしてきたもので、自分のところで止まることはないだろう、とも言います。

ここで彼は、聞き手の誰かが言いそうな問いを、自分から持ち出します。ソクラテスよ、君はまさにその生き方のせいで今にも死にかけているのに、恥ずかしくはないのか、という問いです。

ソクラテスは、正面から答えます。少しでも値打ちのある人間が、生きるか死ぬかの危険を計算に入れるべきだという考え方は、正しくない。人間は何かをなすにあたって、「ただそれが正しいことか不正なことか、善き人間の行いか悪しき人間の行いかということだけを考えるべきなのだ」と。

テティスの子の例

この考えを支えるために、ソクラテスは、トロイアで命を落とした半神たちに言及します。とくに取り上げるのは、テティスの子です。訳文には名前が出てきませんが、一般にアキレウスとして知られる英雄のことと読むことができます。もしその言い分にしたがうなら、この半神たちは、いかにもつまらない者だということになってしまう、と彼は言います。

その理由が、この場面の中心です。女神である母は、ヘクトルを討とうと意気込む息子に、ソクラテスの記憶では、およそこのように告げました。友パトロクロスの仇を討ってヘクトルを殺せば、お前自身も死ぬことになる、ヘクトルの後には、すぐさま死が待ち受けているのだ、と。ところが息子は、死も危険もまったく意に介しませんでした。むしろ彼がはるかに恐れたのは、卑怯者として生き永らえ、友の仇を討たずにいることでした。不正を行った者に罰を加えたうえで、すぐにでも死にたい。笑い者になって、大地の重荷として留まりたくはない。それが彼の言葉です。ソクラテスは、そのうえで問いかけます。彼が死や危険を気にかけたと、あなたは思うだろうか、と。

持ち場を捨てることのほうが、恐ろしい

ソクラテスは、この例から、自分の原則を引き出します。誰であれ、自分でここぞ最善だと判断して身を置いた場所、あるいは指揮官によって配置された場所では、そこに踏みとどまるべきだ。死も他のことも、恥辱より先に考えてはならない、と。

そして彼は、自分の経験を持ち出します。諸君が選んだ指揮官たちが、ポテイダイアでも、アンフィポリスでも、デリオンでも自分を配置したとき、自分は踏みとどまり、他の誰とも同じように死の危険を冒した。それなのに、神が、哲学しながら、自分自身と他人とを吟味しながら生きねばならないと命じ、自分もそう理解していたにもかかわらず、死や何かその他のことを恐れてその持ち場を捨てるとすれば、それこそ恐るべきことだ、と言うのです。ここでは、戦場での持ち場と、神に命じられた生き方とが、並べて語られています。ソクラテスにとっては、吟味しながら生きることもまた、離れてはならない持ち場だった、と読むことができます。

もしそうしたなら、彼は、神々の存在を認めず、神託に背き、死を恐れ、知恵があると思い込んでいる者として、正当に法廷に引き出されることになるだろう、とも言います。告訴状の内容が、皮肉な形でひっくり返されているように見えます。

知らないのに、恐れてよいのか

ここから話は、もうひとつの理由に移ります。ソクラテスは言います。「死を恐れるということは、諸君、知恵がないのに知恵があると思い込んでいることにほかならない」。なぜなら、誰も死について知っている者はいないからです。死が人間にとってあらゆる善きもののうちで最大のものであるかどうかさえ、分かりません。それなのに人々は、死が悪しきもののうちで最大のものであると、よく知っているかのように恐れています。これは、知らないことを知っていると思い込む、あの非難されるべき無知でなくて何だろうか、と彼は問います。

ソクラテスは、自分が誰かよりも知恵があると言えるとすれば、まさにこの点だと述べます。すなわち、「冥界のことについて十分に知らないのだから、知らないとも思っている」という点です。ここで注意したいのは、彼が死は善いものだと主張しているわけではないことです。分からないことを、分かっていると言わない。その態度が、死への恐れにも向けられているのです。

一方で、彼が知っていると言うことがあります。不正を行うこと、そして自分よりも優れた者、神であれ人間であれ、それに従わないことが、悪しきことであり恥ずべきことだということです。そこから、彼はこう結論します。悪いと知っているものよりも、「善いものかもしれない知らないもののほうを、恐れたり逃げたりすることは決してないだろう」と。

こうして、ソクラテスが死をおそれなかった理由は、二つの形で示されました。何かをするときは危険ではなく、正しいかどうかを考えるべきだということ。そして、死について知らないのに悪いと決めて恐れるのは、知らないことを知っていると思い込むことだということ。不正が悪いと知っていることが、その支えになっています。それは、知っていることと知らないことを取り違えない姿勢だった、と読むことができます。この言葉に続いて、ソクラテスは、たとえ哲学をやめるよう求められても従わないと語り、さらに、自分を、大きな馬に取りついて目を覚まさせる虻にたとえます。馬にたとえられているのは何か。虻の役目とは何なのか。次は、その場面を見ていきましょう。